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乙姫岩

乙女橋から眺める景色は格別です。木曽川の深い渕とそそり立つ荒々しい岩肌が、 雄大な自然美を見せてくれます。 橋の欄干にはここに伝わる浦島伝説の解説板、 両岸には乙姫と浦島太郎のモニュメントが建っています。



乙姫岩の側へ行ってよく見ると、岩石が幾重にも積み重なるようにおいかぶさり、上には主に松が生え、まるで風雨に耐え忍んでいるようです。
 昔、この附近一帯は、乙姫岩を中心に、殿岩、獅子岩、波切岩、亀岩、袖振岩、伊勢岩、屏風岩、膳岩等が水面より顔を出し、山口側(現在砂浜)には雄大な入江があり、渦を巻いてあたかも龍宮峡をしのばせる思いであったそうです。
 乙姫岩の上流をキンチジミといって、岩まで泳ぎ着くにはなかなか勇気がいり金玉が縮むところから、こんな言葉が出てきたのでしょう。
 昭和の初期には、落合のダムからボートを浮ばせ乙姫岩まで来ることができ、附近に湧き出る鉱泉を利用して、一大遊園地計画までした人も出てきました。
 古老の記憶によると、明治三十七年七月十七日の夜の大水害で一部分形が変わったそうであるが、大正十三年に大同電力会社落合ダムの建設から、土砂がだんだん埋まり、現在では、乙姫岩は半分位埋まったのではないかと言われています。そのため、附近の岩も姿を隠し今では、二、三の岩が僅かに見えるのみです。

 昭和二十八年七月二十日の朝の大水害で、乙姫岩の頂上近くまで水がつきました。そして、昭和三十九年九月二十五日の牧尾ダムの放水で大きな松もお堂も押し流されてしまったので、昭和四十二年頃にお堂は再建されました。

 そんな過去をたどりながら、山口村十区、十一区では、毎年、旧暦の八月一日に幟をたて龍宮神社の祭りを営んでおられます。坂下の西方寺から昭和二年五月に戌年男として幟一本奉納されています。

 屋号も、八重島、浦島、中島、下島等、島名をもったのが山口には多く残されております。

 そして、昭和五年五月に濃飛十二名所として龍宮峡が指定されました。



 流れ来し水もしばしば淀むらん、乙姫岩の姿みとれて

  水態山容真偉観

  蘇峡滔々洗厳壁

  乙姫霊厳碧渕中

  龍宮神秘是仙境

    暁峰(八千代)


 龍宮乙姫岩には、こんな伝えばなしがあります。

 むかし、むかし、乙姫岩に乙姫様が住んでみえました。

 上松寝覚床に住んでいた三帰翁(若い時は浦島太郎と仇名した)は、釣が大好きで明けても暮れても、亀岩より糸を垂らしておりました。

 或る時のこと、奥山より鉄砲水が流れてきて、釣をしていた太郎は岩もろとも押し流されてしまいました。気絶して漂流するうちに乙姫岩に流れ着きました。姫は、使者に命令して救わせて龍宮に運び、手厚い介抱をしました。その結果、太郎は元どおり元気になりました。

 釣のすきな太郎は、乙姫岩から魚を釣ると魚がはずれて岩根山崇の大岩にドシンとあたり魚の跡がつきました(今でもある)。

 しばらく休んでいるうちに、太郎と乙姫様は熱烈な恋仲になってしまいました。寝覚床を忘れた太郎は、毎日のように御馳走をいただき楽しんでおりました。しかし、身分のちがう太郎は何時までもあまんじておるわけにはいかず、寝覚床へ帰る覚悟をしました。

 別れを惜しみながら、太郎は、下島、中島、八重島とわたり浦島より帰りました。それを見送りに出られた乙姫様は、袖振岩まで三度も往復して別れを借しみました。(三回往復したので三帰里と呼び今は握といいます。)

 再会を誓いながら、太郎は寝覚床で、乙姫様は龍宮で互いに待ち続けました。

 辛棒出来なくなった太郎は、乙姫様よりいただいた不老の玉手箱を遂にあけてしまいました。すると、不思議なことに、その玉手箱から白い煙がぱっと出て、太郎はたちまち白髪の老翁になってしまい、再会する事はできませんでした。







参考文献と話を開いた人


龍宮峡乙姫岩…八千代発行

古村 洋一(新町)

林 彦太郎(握)

和田 和子(島平二)

山口村役場

山口村十区のみなさん



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