中山道を歩く

中山道の街道筋でもあった「けやきもーる新町」に作られた新名所。御影石を敷き、酒屋、庄屋、茶屋と卯建のある家をモチーフに当時の趣きを現代風にアレンジした憩いの場です。
つきあたりの土蔵風の建物は公衆トイレになっています。


この番所がいつ設けられたか詳しい記録はないが、尾張藩が享保16年(1731年)茄子川下新井に「川並番所」を設置した記録があるので、これに対応して設けられたものであろう。


中津川宿場東はずれ茶屋坂から、飛騨の国に通ずる道が分岐していた。地元の人々は飛騨への道であるので、飛騨街道と呼んだ。飛騨の人々は、中山道から江戸への道として利用したので、江戸道とも称した。中山道から飛騨に通ずる道の中では、長い期間雪に閉ざされる野麦峠などと異なり、冬期の利用が目立った。天領の飛騨、裏木曽の木材等で、役人の往来がしばしばあった。


小石塚は、千旦林ほか三か村の入り組んだ所で、七軒の農家があり、それぞれ宿屋や茶屋を営んでいた。地名の由来は、尾張国或城主の姫が、文武に秀でた青年に恋心を持つが、若者は主の姫との恋は許されないと思い、この地に隠れ住んだ。姫が青年の後を追い千旦林に来た時は、若者はすでに他界。姫も後を追うように死んだ。村人達は若者の塚を「恋し塚」と呼び地名となった。


この辺りで中山道の道筋は、新国道に収合され残念ながら姿を消してしまった。小石塚の現存する旧道はずれ付近に、古い樫の木が残り、そのもとに板碑ほか石仏がある。この板碑は、墓標が五輪塔から石塔に移行する時期の、貴重な数少ない石碑の一つである。「空風火水地喝 月翁字清禅定門 十三回忌辰嵐讃岐 寛永三年初夏念日 孝子八男建焉」と刻まれている。


美濃路には道祖神は数少ない。しかも双頭一身の像形はこの付近でも類を見ない。道祖神は道路の悪霊を防いで行人を守護する神で、この像は中山道から苗木道(飛騨道)への分岐点に建てられている。この碑は文化13年(1816)3月、藤四郎ほかによる建立である。道祖神は男女相愛の柔和な表情や抱擁などの像形から、現在は愛の神としての信仰が深い。


千旦林村に入ると、三津屋に一里塚跡が残っている。明治35〜36年頃まではあったが、現在は消滅して畑となってしまっている。塚には榎が植えられていたと『明細書上』にある。このあたりは道幅も一様に狭い。付近には、江戸初期の美濃幕府直轄地の代官を勤めた岡田将監を祭ると伝えられる将監塚(宝篋印塔)もある。


立場とは、街道を行き交う人々が駕籠などをとめて小休息した所である。坂本立場は4軒の茶屋があった。この立場も文化6年(1809)には焼失したが、旅人には欠くことの出来ない場所だけに早速再建となった。大名達の茶屋での小休は、宿場の本陣などの経営を悪化させる原因ともなったので、文政7年(1824)諸大名の茶屋での小休は禁止されることになった。


大井宿から茄子川村に入って、広久手の坂を登ると石拾い茶屋に着く。かつては茶屋が3軒ほどあった。この付近は茄子川焼きが最初に始められた所で、文政3年(1821)頃から瓦焼きも行われ、盛時には6〜7軒程の瓦屋があった。登りたて左手道端に、地蔵と五百羅漢への道標が立っている。


三五沢の宿場境から、急坂を登ると与坂に至る。与坂には立場茶屋「越前屋」があり、名物三文餅を売っていた。また与坂徳利も有名であった。
この与坂には、木曽谷の桧などの停止木や留木の通過に目を光らせた白木改番所があった。ここに番所が設けられたのは延享2年(1745)であり、その後番所は中津川宿上金に移された。


落合宿は東から横町・上町・中町・下町と続き、町の長さは約390m、家数75軒、人口370人。旅籠屋14軒の小さい宿場であった。宿内の中央には用水が流れ、町の中程に本陣・脇本陣が向かい合っていた。本陣は井口家で千村方、脇本陣は塚田家で山村方の庄屋をし、なお問屋も兼ねていた。落合宿は文化元年と12年の2度にわたる大火に見舞われ、宿駅の経営は困難をきわめた。 


本陣東隣に、卯建と格子窓の民家がある。この家は『夜明け前』の主人公青山半蔵の内弟子林勝重の生家で、作品では稲葉屋として登場する。地元では泉屋と呼び、酒造業を営み、勝重は落合村戸長も勤めた鈴木利左衛門弘道である。弘道の祖々父は、美濃派の俳諧での宗匠嵩左坊で、この地方の俳諧に残した業績は大きい。


信州サンセットポイント100選に選ばれている場所です。
天気のいい夕方、ここから笠置山を眺めると、空は真っ赤に染まり、木曽川が赤く輝いています。


茄子川御小休所(篠原家). 中津川宿と大井宿の中間にあり、大名や姫君が休息した場所。 明治天皇も利用され、部屋や門は今もそのまま保存されている。


宿や村の庶民に法令を徹底させる手段として高札場が設けられていた。高札場の管理は厳重で、古くなって墨文字が薄くて墨入れを必要とするようなときでも藩の指示を待たねばならなかった。
現在馬籠では当時の場所に忠実に復元してあるが、その内容は正徳元年(1711)の記録のものである。


幕府が街道を整備するとき、一里(4km)ごとに道の両側に土を盛った塚を築いて旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。塚の上には榎や松の木を植えてその目印にした。
現在馬籠宿と落合宿の境にその1基が残っている。中山道では唯一の遺跡である。


卯建とは火事の際、類焼を防ぐための防火壁で、隣家との境に高い壁を設け、その上端に小屋根を置きました。


本陣跡の筋向かいに、中津川村庄屋・肥田九郎兵衛が住んでいた家があります。よく保存されており、卯建を持つ風格は往時の庄屋屋敷を偲ばせ、本町かいわいでは当時の面影を最もよく残している建物です。現在は、一般の住宅として使用されているため、見学はできません。


道が直角に左、右と続いて折れ曲がっている場所を枡形といいます。


中山道の落合宿と馬籠宿の間は急峻な坂道で、この急な坂の通行の便を図りまた大雨による道のぬかるみを防ぐために、自然石を敷き詰めて整備されたのが石畳です。


『徒然草』の作者として知られる吉田兼好は『吉野拾遺物語』(1358年成立)によると、兼好法師は人里離れたここ湯舟沢の地に庵を結んだ。


茶屋坂は、中津川宿の東の入り口。つづら折りの急な坂道の下には、高札場が復元されています。高札とは、法度や掟書などを板に書き掲げた掲示板のこと。当時は、新町から見えるほどの大きな松があったと言います。


文豪「島崎藤村」のふるさと馬籠宿は、木曽11宿の最南端、美濃との国境にあり、山の斜面に沿った全長600m余りの坂に開けた宿場。


現在の建物は、文化年間落合宿の大火により類焼し、その後建築されたもので、門は加賀藩の前田侯により火事見舞いとして贈られたものと伝えられている。内部は善昌寺への抜け穴等があり、様々な工夫がされている。