史跡

この辺りで中山道の道筋は、新国道に収合され残念ながら姿を消してしまった。小石塚の現存する旧道はずれ付近に、古い樫の木が残り、そのもとに板碑ほか石仏がある。この板碑は、墓標が五輪塔から石塔に移行する時期の、貴重な数少ない石碑の一つである。「空風火水地喝 月翁字清禅定門 十三回忌辰嵐讃岐 寛永三年初夏念日 孝子八男建焉」と刻まれている。


尾張の人覚明行者は、木曽御嶽山を開くため中山道を通り、ここ槙坂の茶屋で泊まった。主人佐次兵衛一家は皆でもてなした。その感謝のしるしに、湯呑、数珠及びちんちん石(鉦鼓)を記念に贈った。時に天明5年(1785)5月5日であった。その後行者は御嶽山への通路を開き、頂上にて大往生を遂げたと伝えられている。開山を記念して茶屋の位置に覚明霊神を祭った。


大洗磯前神社(薬師堂)は、椛の湖から上野のほうへ行って薬師堂前というバス停を右に曲がって200メートルぐらい行って右に上に上がったところにあります。
同じ場所に杉の大木があり、これも県の天然記念物に指定されています


明治16年頃からの蚕種の冷蔵貯蔵庫として利用されていました。最盛期には、全国の蚕種の7割近くを保存していたと言われる風穴も、現在では原型をとどめるものはほとんどなく、石を積み上げた跡が残っているだけです。
強清水付近、林道沿いにもみられます。安全のため風穴内に入ることはできませんが、近づくと天然の涼しい風が感じられます。


中津川市と東隣の長野県阿智村との境にある標高1,595mの峠で、東山道最大の難所として別名「信濃坂」とも呼ばれていました。
 弘仁6年(815)、この峠を通りその険しさと宿がないことを知った最澄は、峠をはさんで中津川側に「広済院(こうさいいん)」、阿智側に「広拯院(こうじょういん)」という宿を設けました。峠越えに苦しんだ多くの旅人がその恩恵に預かったとされ、この宿泊所はわが国の福祉の原点とも言われています。
 現在、阿智村園原に広拯院跡と伝えられるところがあり、中津川市は神坂霧ヶ原地区に広済院顕彰碑が祭られています。


荒町の集落の中程の左手、竹藪の繁る小丘上にある。一名丸山城とも呼ばれている。案内板によると、永禄元年(1558)木曽義昌が築城、島崎監物により守られたと言われ、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの折り、徳川方に攻められ、島崎氏は破れ、妻籠城に逃れたという。この監物が藤村の祖先で、木曽義昌が網戸に移封後、野に下り馬籠宿本陣を勤めたと伝えられている。


昔、この辺りに地蔵堂があったと言われていますが、所在は明らかではありません。無縁の石仏を集めたところとも伝えられ、元禄7年(1694)の庚申塚や地蔵、観音像など、数多くの石仏があります。また、特異な文字で「南無阿弥陀仏」と書かれた徳本上人の念仏塔があり、19世紀初めに行者がこの地に逗留して布教したことを偲ばせます。街道を通る旅人は、枝垂れ桜の名木に心を和ませ、旅の無事を祈ったのでしょう。


昭和も戦後頃の富士見台は、危険な箇所も少なく安全の山とされていた。当時地元神坂中学校では学校行事として、夏季休暇中に富士見台でキャンプを行っていた。


上総国森岩寺の前住職越山和尚が、旅の途中茄子川の勝半蔵宅に泊まり、翌日裏の景勝地寺居山で、枯木の観音に遭い、亡師宗龍の石仏五百羅造立の遺言を思い出し、この地に五百羅観音建立に踏み切った。尾張の寺社役所の許可を得て、5年目の寛政10年(1798)多くの人々の寄進を得て山開きする運びとなった。五百羅漢であるが、現在は129体で、長い年月により傷も大きい。 


桃山公園の西の丘、山王寺の境内にある石像。愛媛県出身で、大正時代から中津川に住み着いた、熱心な弘法大師の信者、徳増こさくが建立し、自ら庵主となって奉仕しました。高さ約10mのこの像は1つの石でできており、この種の石像としては世界に類の少ない、巨大なものとなっています。毎年4月21日に例祭が行われます。


山路来て何やらゆかしすみれ草」の句は貞享2年(1685)の作品で、「野ざらし紀行」の別名を持つ「甲子吟行」に収録。句碑は安永元年(1772)に建てられましたが、昭和53年に現在の所へ移設され、「すみれ塚」と呼ばれて親しまれています。


山中薬師の名で親しまれる瑠璃山医王寺は、落合川に架かる下桁橋からしばらく登ったところにあります。この寺に伝わる薬師如来は行基(ぎょうぎ)の作と伝えられ、虫封じの薬師として、三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして広く信仰を集めています。またこの寺には、十返舎一九の『木曽街道続膝栗毛六編』にも登場する、狐膏薬伝説が伝わっています。


幕府が街道を整備するとき、一里(4km)ごとに道の両側に土を盛った塚を築いて旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。塚の上には榎や松の木を植えてその目印にした。
現在馬籠宿と落合宿の境にその1基が残っている。中山道では唯一の遺跡である。


正岡子規の句碑のある場所から300mはど岐阜県側に進むと路傍に小さな池があり、その池の傍に高さ90センチほどの自然石に“送られつ送りつ果ては木曽の砲”の松尾芭蕉の句碑が建っている。


永昌寺横の小さな公園の一角に、藤村の詩「母を葬るのうた」(若菜集)が建てられている。


藤村記念館第二文庫の正面左横に高さ106センチ、幅87センチの自然石にはめ込まれた銅版に陰刻で「誰でもが太陽であり得る。わたしたちの急務はただただ眼の前の太陽を追いかけることではなくて、自分等の内部に高く太陽を掲げることだ 島崎藤村」と藤村自筆の碑がある。


馬寵のほば中央にある馬籠脇本陣史料館の前に、山口誓子の“荷道の坂に熟柿灯を点す 誓子”の句碑がある。


峠の集落を抜けたあたりの路傍に江戸時代の滑稽本の作者「十返舎一九」の狂歌『渋皮のむけし女は見えねども 栗のこはめしここの名物 十返舎一九』の碑が目に入る。


卯建とは火事の際、類焼を防ぐための防火壁で、隣家との境に高い壁を設け、その上端に小屋根を置きました。


鎌倉時代より鎌倉と飛騨を結ぶ道として発達した南北街道と、渡会を経て御岳へと辿る御岳参拝道。この道の分岐点にあたるのが「辻堂」です。分岐のまん中には石地蔵、そして傍らには一里塚・・・。いにしえの人々が利用した道の面影が、今も残る場所です。


日本三大庚申の一つといわれる下野庚申堂。


法華経八の巻(典籍)


松尾芭蕉の句碑を始め、中津川市ではさまざまな文人たちの作品が刻まれた文学碑を目にすることができます。


馬籠峠に建てられている。自然石の道標で表面に「馬籠峠・馬籠約二十丁・妻籠約一里五十丁」と刻まれている。道標の下部に子規の「白雲や 青葉若葉の 三千里 唐樹子書」という句も刻まれている。


水口源左衛門の碑は坂下高校の裏にあります。碑の後ろには上井用水が流れています。


「逃げの小五郎」の異名を持つ桂小五郎は、とにかく逃げたり隠れるのがうまかったと言います。ここ中津川宿でも幕末の動乱の中、桂小五郎が隠れていました。


木曽川の北岸、通称城山と呼ばれる高森山に築城された苗木城は、土岐氏と並んで東濃一帯を制していた遠山家代々の居城でした。現在は石垣を残すのみですが、ここを 訪れる人々はからは巨岩と石垣との壮大な組み合わせに感嘆の言葉がでるほど、この城 跡は山城独特の要害の堅固さが特色になっています。


岐阜県と長野県の県境、新茶屋に建ち、1940 年7月 6 日付けの麹町六番町からの「碑の文字のことはよろこんで引き受けませう・・・」という自筆の手紙の文も彫られている。(現在は合併をしたので、県境ではない。)


中津川の豪商として知られた間家の鉄筋コンクリート構造の倉庫。